| みはし探訪の見学者一言感想 | ||
| ■坂上直哉 かつて神が宿っていたディティールは近代以降、その神の止まり木をはずし続け今に至っている。部分が全体と繋がり、人の心と場を優しく結ぶディティールを創るシステムの消失と言う、現在足元に在る深刻な問題をいきなり遊園地を思わせるファサード(失礼)から、みはし(株)の展示会場に入った途端に突き付けられ身が引き締まる思いがした。 顧問の平田純一氏の語られた、近代合理主義を代表する巨匠ル・コルビジェの思想「住宅とは住むための機械である。家具はその設備である」への所感、西欧においてのカトリックからプロテスタントへの時代の変遷における装飾の基層の大きな変化等々の話は、私自身としても共鳴する事の多とするところでした。確かに近代合理主義の時代は黄昏の季節を迎えているように見えます、氏の言われるように装飾、飾り物が主役を演じる時が近づいているようです。 大きな時代の変換の中で、装飾性の意味も表出する表現形態、技術も変遷する。渦中でどのような連係、システム、製品が生まれてくるのか楽しみです ・・・ 会社を訪問をしていつも思う事は、物を作っている現場、会社はおもしろい!! そしてルーツになる人材と人物がいる。 ■露口典子 この夏、六本木でル・コルビュジェ展が開催されていた。ロンシャンやリヨンでの感激を思い出しながら、ゆっくりと展示を見る。近代建築の始祖と言われているのに、その人の建築からは温かさを、愛を感じる。 かつて日本の建築には、機能と装飾の両面が豊かに混在していた。今でも富山県井波では300人もの人たちが黙々と木を彫っている。 コルビュジェから100年。彼が生きていたら驚いてひっくり返るほど、私たちは愛のない量産品に毎日囲まれて生活をしている。 この目まぐるしさの渦中にあって、一体どのような建築を私たちは求めているのだろうか。みはし殿の課題は、aacaの基本姿勢が問われていることでもあると感じた。 ■高城和文 建築における装飾と無装飾という視点、「シンプルモダン中心とした近代・現代日本の建築物に装飾の復活を!」そんな挑戦が行われている。 装飾材による空間デザインの実現は、その多くが個性的なあるいは少数の感性(センス)を刺激、満足するものでなくてはならないのではないかと勝手に思っている。 であるならば、それは、いわゆる大量生産型部材では解決できないはずであり、工芸技術や伝統技法によらなければ実現できない。経済至上主義の波のだだ中にある建築生産において、そうした技能・技法が絶えて久しいが、「みはし」さんでは、自社で開発した特殊加工技術によって、経済性と少量多品種生産という対立する課題に挑戦し、数千にのぼるアイテムを準備している。生活者の視点でデザイン欲求に応える、「ニーズ」が製品化の源泉であるとする企業姿勢に拍手を送りたい。 ■鮫島貴子 ユーザーが選びやすいように、取扱いアイテムを出来るだけ増やしていく〜みはし株式会社さんの分厚いカタログを拝見していると、なるほどエンドユーザーが室内装飾についてあれこれと想像しやすいことがわかります。ただ、個人的な理想を敢えて言わせていただくならば、やはりもう少し日本の伝統技術を継承するための試みを取り入れていただきたいです。 手作業の装飾パーツはだいたいアジアかヨーロッパからの輸入だということを伺うと淋しい気もします。企業はどうしても利潤を考えなくてはならないので、このことはどのメーカーもが抱えている問題であると思うのですが、、。 それらを解決していくためにも、エンドユーザーはじめ、日本人全体が物を見る目を養い、今後益々それらを積極的に評価していかなくてはならないのでしょう。 ■田上秀司
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